般若心経・金剛般若経 十六

今日から金剛般若波羅蜜経です。

「金剛般若波羅蜜經/姚秦天竺三藏鳩摩羅什譯/如是我聞。一時佛在舎衞國祇樹給孤獨園。與大比丘衆千二百五十人倶。」

書き下し文

「金剛般若波羅蜜経(こんごうはんにやはらみつきよう)
         姚秦(ようしん)の天竺(てんじく)三蔵鳩摩羅什(くまらじゆう)訳す

是(かく)の如くわれ聞けり。一時(いっとき)、仏、舎衛(しやえ)国の祇樹給孤独園(ぎじゆぎつこどくおん)に在(い)まして、大比丘(びく)衆(しゆ)千二百五十人とともなり。」

現代語訳

「尊ぶべき、神聖な、智慧の完成に礼(らい)したてまつる

わたくしが聞いたところによると、――あるとき師は、千二百五十人もの多くの修行僧たち[と、多くの求道者・すぐれた人々]とともに、シュラーヴァスティー市のジェータ林、孤独な人々に食を給する長者の園に滞在しておられた。」

姚秦:「後秦」ともいいます。羌(きょう)国の姚萇(ちょう)が前秦王符堅を殺して建てた国。国の都は長安であって、三八四年から四一七年まで続きました。クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)は二代の姚興に招かれて長安に入り、十二年間仏典翻訳の仕事に従事しました。

(続く)

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般若心経・金剛般若経 十五

「羯諦(ぎやてい) 羯諦(ぎやてい) 般羅羯諦(はらぎやてい) 波羅莦僧羯諦(はらそうぎやてい) 菩提僧莎詞(ほじそわか)/般若波羅蜜多心経(はんにやはらみつたしんぎよう)」

書き下し文

「羯諦 羯諦 般羅羯諦 菩提僧莎詞 

般若波羅蜜多心経」

現代語訳

「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。)
ここに、智慧の完成の心が終わった。

「ガテー ガテー バーラガテー ボーディ スヴァーハー」は翻訳不能な真言です。ここに役の一例が書かれていますが、それもただの一例にすぎません。唯、真言とは、諸仏や菩薩に呼びかける呪文で、サンスクリット語ではマントラというものです。忌まわしいオウム真理教事件で「マントラ」という言葉が何度となく出てきましたが、あれは盲信で宗教ではありません。宗教を装ったペテン師集団です。

何か真実のようなことをまことしやかに語るものには絶えず疑いの目を向けてください。そして、自分で原典に当たる事が大切です。般若波羅蜜多心経はとても短いのですが、文教の心理を語っています。それだから、般若心経は写本として現在静かなブームとなっています。

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般若心経・金剛般若経 十四

「三世諸佛(さんぜしよぶつ)。依般若波羅蜜多故(えはんにやはらみつたこ)。得阿耨多羅三貘三菩提(とくあのくたらさんみやくそんぼだい)。

書き下し文

「三世諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三貘三菩提を得たまえり。」

現代語訳

「過去・現在・未来の三世にいます目覚めた人々は、全て、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目覚めを覚り得られた。」

要約ここで、初めて、大悟した者のその世界の肯定が出てきました。これまで、「ない」尽くしだったものが、初めてここで世界と己の肯定を語ります。佳子・現在・未来の三世に大悟した者が存在し、その者は、智慧の完成に行安んじている、と述べられます。

「故知般若波羅蜜多(こちはんにやはらみつた)。是大神咒(ぜだいじんしゆ)。是大明咒(ぜだいみようしゆ)。是無上咒(ぜむじようしゆ)。是無等等咒(ぜむとうどうしゆ)。能除一切苦(のうじよいつさいく)。眞實不虚故(しんじつふここ)。説般若波羅蜜多咒(せつはんにやはらみつたしゆ)。即説咒曰(そくせつしゆわ)。
書き下し文

「故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならざるが故に。般若波羅蜜多の咒を説く。すなわち咒を説いて曰く、」

現代語訳

「それ故に人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、全ての苦しみを鎮めるものであり、偽りがないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。」

智慧の完成した者のその静かなる心とその説くことの真言である事を述べられています。次にその真なる内容が語られる筈です。それがどんな言葉化は知ってゐる人は知ってゐると思いますが、次回に譲ります。

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般若心経・金剛般若経 十三

「無●「あみがらしに圭」礙故(むけいげこ)。無有恐怖(むうくふ)。遠離[一切]顛倒夢想(おんりいつさいてんどうむそう)。究竟涅槃(くきようねはん)。」

書き下し文

「●「あみがらしに圭」礙なきが故に、恐怖あることなく、(一切)顛倒夢想を遠離(おんり)して涅槃(ねはん)を究竟(くきょう)す。」

現代語訳

「心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。」

涅槃

ニルヴァーナ

「修行者たちよ、そこには地も水も火も風もなく、空間の無限もなく、識の無限もなく、無一物もなく、想の否定も非想の否定もなく、この世もかの世もなく、日も月も二つながらない。修行者たちよ、わたしはこれを来ともいわず、去ともいわず、住ともいわず、死ともいわず、生ともいわない。よりどころなく、進行なく、対象のない処、これこそ苦の終わりであるとわたしはいう。修行者たちよ、生じないもの、成らぬもの、造られないもの、作為されないものがある。修行者たちよ、もしその、生ぜず、成らず、造られず、作為されないものがないならば、そこには、生じ、成り、造られ、作為されたものの出離(しゅつり)はないであろう。修行者たちよ、生ぜず、成らず、造られず、作為されないものがあるなら、生じ、成り、造られ、作為されたものの出離があるのである。」(小部経典ウダーナ(『自説経』)より)」

涅槃というものが平安と訳されていますが、涅槃に関しては、註のように解釈があります。つまり、ここでも「ない」のです。「ない」ということは、何事にも囚われることなく、自在と言っているのかもしれません。自在というのは、平安に違いないからです。しかし、自在ということは、一方で恐怖であります。そして、顛倒した心と言っていますが、「顛倒夢想」は正しくものが見る事が出来ない迷いの事で、迷いから離れて、平安、つまり、涅槃に至る、と解釈可能です。しかし、涅槃というものが何なのかは、人それぞれ違っていいと思います。●「あみがしらに圭」礙と言っているのですから、自在であるのです。

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般若心経・金剛般若経 十二

「以無所得故(いむしよとくこ)。菩提薩●「つちへんに垂」(ぼだいさつた)。依般若波羅蜜多故(えはんにやはらみつたこ)。心無●「あみがらしに圭」礙(しんむけいげ)。」

書き下し文

「得る所なきを以ての故に。菩提薩●「つちへんに垂」は、般若波羅蜜多に依るがゆえに。心に●「あみがらしに圭」礙なし。」

現代語訳
前回分も含めて

「苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。」

ここでもまだ「ない」での論です。苦しみはなく、苦しみの原因もなく、苦しみを制することもなく、苦しみを制する道もない、とこの世に存在する限り、人は、苦しみから逃れられないと述べています。そして、得る事がないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している、と。つまり、智慧の完成は思い過ごしに違いなく、智慧の完成が訪れるということはなく、そんな中で人間は生きている、と言っています。大悟の境地は、何事も無化してしまうことなのかもしれません。無化できる境地故に、何事も大悟できるのかもしれません。これはとても逆説的で、「ない」故に智慧の完成もなく、智慧の完成ということに囚われずに、人はこの世に生きている、と、ここにも諦念が見られます。《生》は、「ない」こと故に、何事にも囚われることなく、自在に生きている、と解釈可能です。

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般若心経・金剛般若経 十一

「乃至無老死(ないしむろうし)。亦無老死盡(やくむろうしじん)。」

書き下し文

「乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。」

現代語訳

「こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。」

さて、老いも死もないとここでも「ない」です。しかも、生きていれば、避けられない老い死がないときています。これは、暴論です。が、悟りに至れば、老いと死に囚われる事はないと言っているのです。そして、「老いと死がなくなることもない」と述べられています。老いと死がないということもないのです。つまり、悟り(大悟)に至れば、老と死に囚われることなく、融通無碍、または、自在な状態に《吾》というものは、至りえると説いているのです。

「無苦集滅道(むくしゆうめつどう)。無智亦無得(むちやくむとく)。以無所得故(いむしよとくこ)。

書き下し文

「苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。」

「苦も集も……」:苦・集・滅・道の四つの真理(四諦)は、仏陀の教義の根本である。「苦諦」とは、人生の生老病死の四苦、さらにこれに愛別離苦、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごおんじようく)を加えた八苦に満ちているという真理です。「集諦」とは、この苦は迷いによる業が集まって原因となっているという真理です。「滅諦」とは、迷いを断ち尽くした永遠な平安の境地が理想であるという真理です。「道諦」とは、その理想に達するためには道に因る事が必要であるとして「八正道」等を実践すべきであるという真理です。

四諦がなく、智もなくもまた、得もなし、と、ここでも「ない」です。悟りとは、「ない」の境地の別名なのかもしれません。「ない」を突き詰めると、何事にも囚われず、融通無碍で自在な境地に至れると言っているのかもしれませんが、それ以前に人間は、「自己否定」の絶望に陥るということが避け得ません。これも「ない」の典型です。タブ本、仏教の考え方の根本に自己否定の深い陥穽に一度落ちよ、という前提があるのかもしれません。これは、個人的にそう思うだけで、大悟に至るには、まず、世界の存在の前提、も勿論、其処には《吾》が含まれますが、それらすべてに囚われる事を已めよ、と言っているのかもしれません。

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般若心経・金剛般若経 十

「無無明(むむみよう)。亦無無明盡(やくむむみようじん)。」

書き下し文

「無明もなく、また、無明の尽きることもなし。」

現代語訳

「(さとりもなければ、)迷いもなく、(さとりがなくなることもなければ、)迷いがなくなることもない。」

無明もなく、

これは、十二因縁の各支の名目をあげるべきところを省略したのです。
1. 無明(むみょう):過去世に無限に続いてきている迷いの根本である無知
2. 行(ぎょう):過去世のむみょうによって創る善悪の行業
3. 識:過去世の業によってうけた現世の受胎の一念
4. 名色(みょうしき):胎中における心と体
5. 六入:胎内で整う眼などの五根と意根
6. 触:出胎してしばらくは苦楽を識別するには至らず、物に触れる働きのみがある
7. 受:苦・楽・不苦不楽、好悪を感受する感覚
8. 愛:苦を避け常に楽を追求する根本欲望
9. 取:自己の欲するものに執着する働き
10. 有:受取によって種々の業を作り未来の結果を引き起こす働き
11. 生:
12. 老死:以上のように過去の因(無明・行)と現在の果(識・名色・六入・触受)、現在の因(愛・取・有)と未来の果(生・老死)という二重の因果を示すものとして、これを三世両重の因果と言います。

ここでもまた、「ない」ことが語られています。無明がないし、無無明もまた、ないのです。徹底しています。これほど徹底したものだからこそ、現代でも仏教は新しいのです。つまり、徹底しなければ、大悟など得られる筈もないのです。まずは、ないない尽くしで、徹底して融通無碍の境地に至る事が求められているように思えます。

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般若心経・金剛般若経 九

「不増不減(ふぞうふげん)。是故空中(ぜこくうちゆう)。無色(むしき)。無受想行識(むじゆそうぎようしき)。無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)。無色聲香味觸ほう(むしきしようこうみそくほう)。無眼界(むげんかい)。乃至無意識界(ないしむいしきかい)。」

読み下し文

「増さず、減らず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなく、乃至、意識界もなし。」

現代語訳

「増すということもなく、減るということもない。

それ故に、シャーリプトラよ、

実体がないという立場に置いては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、意志もなく知識もない。眼もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もなく、形もなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触られる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の領域に至るまで悉くないのである。」

不増不減は、前記の「実体がない」を受けてのものです。そして、さらに、「ない」と続くのです。この徹底ぶりは、凄まじいとしか言いようがありません。「実体がないという立場においては」、あらゆるものが「ない」のです。これは当然と言えば、当然なのかもしれませんが、物質的現象、感覚、表象、意志、知識、眼、耳、鼻、舌、身体、心、形、声、香り、味、触られる対象、心の対象、眼の領域、意識の領域まで、全てがないのです。つまり、私たちが、普通に感じたり思ったりしていることは、虚妄でしかないと言っています。無明という言葉で後ほどそれは語られるのですが、それは、後です。ここでは、《存在》とは、虚妄でしかなく、全ての事は「ない」という境地があるというように思えます。《存在》はそんな境地に至れるのです。この境地は、融通無碍な境地なのだと思います。また、自由自在な境地に違いありません。

しかし、この境地に至るには、如何程の修業が必要なのか、それは、頂上の解からない山を登るに等しい荒行が必要なのかもしれません。それは、途轍もなく、困難が待っているのは、誰の眼にも明らかです。

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般若心経・金剛般若経 八

「舎利子(しやりし)。是諸法空相(ぜしよほうくうそう)。」

読み下し文

「舎利子よ、この諸法は空相にして、」

現代語訳

「シャーリプトラよ。この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。」

再び「実体がない」です。念を押すように般若心経では、初めに、「実体がない」という言葉が、手を変え品を変えて出てきます。つまり、仏教では、「ない」という事が基本なのです。「ある」ではありません。「ない」なのです。「実体がない」というこの言葉の重さは、存在論的に絶対的無が先立つのです。次に進みます。

「不生不滅(ふしようふめつ)。不垢不浄(ふくふじよう)。」

読み下し文

「生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、」

現代語訳

「生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでなく、」

すべてが「不」なのです。「ない」に続いて「不」です。般若心経では、「ない」に続いて「不」により、この世の現象をことごとく否定してゆきます。全てが虚妄として。これは、現代に追いても大胆な考え方に思えます。初めに否定ありき。これが仏教なのではないではないでしょうか。ここまで、「存在」はことごとく否定されています。

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般若心経・金剛般若経 七

色即是空、空即是色、に関しては、人生の宿題として先に進みます。

「受想行識亦復如是(じゆそうぎようしきやくぶによぜ)。」

読み下し文

「受想行識もまたかくのごとし。」

現代語訳

「これと同じように感覚も、表象も、意志も、知識も、すべて実体がないのである。」

再び、「ない」という事が出てきました。感覚も表象も意思も知識も全てが「夢」と言っているのでしょうか。多分、そうに違いないとは思いますが、そんな簡単に事が済む筈がありません。

まず、感覚がない、とは何を意味するのでしょうか。思うに、感覚を感じ取る「私」という存在がそもそも実体がないと言っていて、「私」と思っている「私」は迷妄でしかない、と言っているのかもしれません。

そもそも「私」が「私」を考える事への惑溺とその虚しさは誰もが知っている事だと思います。その「私」に感覚がないと般若心経は断言しているのです。感覚がなければ、頭蓋内の闇に浮かぶ表象もなく、意志も知識も全て「実体」が「ない」のです。これは、「私」が「私」を考えるというトートロジーがどこまでも続く堂々巡りを抜けるためには、「私」は「私」であることを「断念」すると、言っているのかもしれません。

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