「無●「あみがらしに圭」礙故(むけいげこ)。無有恐怖(むうくふ)。遠離[一切]顛倒夢想(おんりいつさいてんどうむそう)。究竟涅槃(くきようねはん)。」
書き下し文
「●「あみがらしに圭」礙なきが故に、恐怖あることなく、(一切)顛倒夢想を遠離(おんり)して涅槃(ねはん)を究竟(くきょう)す。」
現代語訳
「心を覆うものがないから、恐れがなく、顛倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。」
註
涅槃
ニルヴァーナ
「修行者たちよ、そこには地も水も火も風もなく、空間の無限もなく、識の無限もなく、無一物もなく、想の否定も非想の否定もなく、この世もかの世もなく、日も月も二つながらない。修行者たちよ、わたしはこれを来ともいわず、去ともいわず、住ともいわず、死ともいわず、生ともいわない。よりどころなく、進行なく、対象のない処、これこそ苦の終わりであるとわたしはいう。修行者たちよ、生じないもの、成らぬもの、造られないもの、作為されないものがある。修行者たちよ、もしその、生ぜず、成らず、造られず、作為されないものがないならば、そこには、生じ、成り、造られ、作為されたものの出離(しゅつり)はないであろう。修行者たちよ、生ぜず、成らず、造られず、作為されないものがあるなら、生じ、成り、造られ、作為されたものの出離があるのである。」(小部経典ウダーナ(『自説経』)より)」
涅槃というものが平安と訳されていますが、涅槃に関しては、註のように解釈があります。つまり、ここでも「ない」のです。「ない」ということは、何事にも囚われることなく、自在と言っているのかもしれません。自在というのは、平安に違いないからです。しかし、自在ということは、一方で恐怖であります。そして、顛倒した心と言っていますが、「顛倒夢想」は正しくものが見る事が出来ない迷いの事で、迷いから離れて、平安、つまり、涅槃に至る、と解釈可能です。しかし、涅槃というものが何なのかは、人それぞれ違っていいと思います。●「あみがしらに圭」礙と言っているのですから、自在であるのです。