「以無所得故(いむしよとくこ)。菩提薩●「つちへんに垂」(ぼだいさつた)。依般若波羅蜜多故(えはんにやはらみつたこ)。心無●「あみがらしに圭」礙(しんむけいげ)。」
書き下し文
「得る所なきを以ての故に。菩提薩●「つちへんに垂」は、般若波羅蜜多に依るがゆえに。心に●「あみがらしに圭」礙なし。」
現代語訳
前回分も含めて
「苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。それ故に、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。」
ここでもまだ「ない」での論です。苦しみはなく、苦しみの原因もなく、苦しみを制することもなく、苦しみを制する道もない、とこの世に存在する限り、人は、苦しみから逃れられないと述べています。そして、得る事がないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している、と。つまり、智慧の完成は思い過ごしに違いなく、智慧の完成が訪れるということはなく、そんな中で人間は生きている、と言っています。大悟の境地は、何事も無化してしまうことなのかもしれません。無化できる境地故に、何事も大悟できるのかもしれません。これはとても逆説的で、「ない」故に智慧の完成もなく、智慧の完成ということに囚われずに、人はこの世に生きている、と、ここにも諦念が見られます。《生》は、「ない」こと故に、何事にも囚われることなく、自在に生きている、と解釈可能です。