(承前)また、スブーティよ、これらの求道者・すぐれた人々には、《ものという思い》もおこらないし、同じく、《ものでないものという思い》もおこらないからだ。また、スブーティよ、かれらには、思うということも、思わないということもおこらなすからだ。それはなぜかというと、
スブーティよ、もしも、かれら求道者・すぐれた人々に、《ものという思い》がおこるならば、」
註
ものという思い:小乗仏教は「人無我」(実体としての個人存在の否定)を説くのに対して、大乗仏教は「法無我」(個人存在の構成要素の一つ一つについて実体性を否定すること)を説くとふつう言われていますが、この一節では、明らかに「人無我」に対して「法無我」を説き、前者を後者によって基礎づけています。仏教で説く「法」という語は非常に多義的ですが、今ここでは「実体としてのもの」と解して差し支えありません。
ここでは、末法の世になろうが、求道者・すぐれた人々は、仏教の教えがたとえ廃れたとしても、一度、仏典化をひも解けば、直ぐに理解すると言っています。そして、この求道者・すぐれた人々は、自我という思いは起こらず、生存するという思いも、個体という思いも、個人という思いも、起らないと説いています。
また、ものという思いも起こらず、ものでないという思いもまた、起らないと説いています。
何とも難しいですね。これは、ある程度達観した人でないとこの境地は解かりません。個人という自我から遁れ、個人という思いからも逃れ、ものを思うということからも遁れた境地というものは、世俗にどっぷりとつかったものには、言葉上でしか解かりません。解からないながらも、ここで説かれていることは、解かるから不思議なのです。人間、何するものぞ、です。