般若心経・金剛般若経 三十五

筏の喩えの法門:筏の喩えの多くは経典に記されています。〔修行僧たちよ、このように、わたしは、のり越えさせるために、執着させないために、筏の喩えの法を説いた。修行僧たちよ、実に筏の喩えを知る汝らは、法さえも捨離しなければならない。まして、法でないものはなおさらである。〕唯識説の開祖マイトレーヤは、法には教示の法と証得と二種あって、教示としての法が筏に喩えられるのだと言います。

ここでは、執着しない、つまり、無頓着に関して説かれていますが、人間日常生活を糸夏でいる限り、無頓着ではいられません。なにかに執着しているものです。それを踏まえた上での無頓着なのです。

さて、此の「私」という存在は、「私」というものから遁れ出ることが可能なのかどうかは人それぞれの生き方に直結する問題です。唯、仏教では総じて、己に無頓着になるべきと説いています。この境地は、大変難しいものです。それでも、自己に対して無頓着の境地に達すれば、それは、たぶん、平安なる境地に違いありません。

しかし、それまでは、人間、じたばたしなければどうにもこうにもしようがありません

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