般若心経・金剛般若経 十一

「乃至無老死(ないしむろうし)。亦無老死盡(やくむろうしじん)。」

書き下し文

「乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。」

現代語訳

「こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。」

さて、老いも死もないとここでも「ない」です。しかも、生きていれば、避けられない老い死がないときています。これは、暴論です。が、悟りに至れば、老いと死に囚われる事はないと言っているのです。そして、「老いと死がなくなることもない」と述べられています。老いと死がないということもないのです。つまり、悟り(大悟)に至れば、老と死に囚われることなく、融通無碍、または、自在な状態に《吾》というものは、至りえると説いているのです。

「無苦集滅道(むくしゆうめつどう)。無智亦無得(むちやくむとく)。以無所得故(いむしよとくこ)。

書き下し文

「苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。」

「苦も集も……」:苦・集・滅・道の四つの真理(四諦)は、仏陀の教義の根本である。「苦諦」とは、人生の生老病死の四苦、さらにこれに愛別離苦、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごおんじようく)を加えた八苦に満ちているという真理です。「集諦」とは、この苦は迷いによる業が集まって原因となっているという真理です。「滅諦」とは、迷いを断ち尽くした永遠な平安の境地が理想であるという真理です。「道諦」とは、その理想に達するためには道に因る事が必要であるとして「八正道」等を実践すべきであるという真理です。

四諦がなく、智もなくもまた、得もなし、と、ここでも「ない」です。悟りとは、「ない」の境地の別名なのかもしれません。「ない」を突き詰めると、何事にも囚われず、融通無碍で自在な境地に至れると言っているのかもしれませんが、それ以前に人間は、「自己否定」の絶望に陥るということが避け得ません。これも「ない」の典型です。タブ本、仏教の考え方の根本に自己否定の深い陥穽に一度落ちよ、という前提があるのかもしれません。これは、個人的にそう思うだけで、大悟に至るには、まず、世界の存在の前提、も勿論、其処には《吾》が含まれますが、それらすべてに囚われる事を已めよ、と言っているのかもしれません。

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