般若心経・金剛般若経 二十六

「不也世尊。須菩提。南西北方四維上下虚空可思量不。不也世尊。須菩提。菩薩無住相布施福徳。亦復如是不可思量。須菩提。菩薩但應如所教住。」

書き下し文

「『いななり、世尊よ。』『須菩提よ、南西北方思維上下の虚空は思量すべきやー、いなや。』『いななり、世尊よ。』『須菩提よ、菩薩の、相に住すること無き布施の福徳も、またまた、かくの如く、思量すべからず。』『須菩提よ、菩薩は、ただ、まさに教うる所の如くに住すべし。』」

現代語訳

「スブーティは答えた――『師よ、計り知れません。』
師は問われた――『これと同じように南や西や北や下や上の方角など、あまねく十万の虚空の量は、たやすく計り知れるだろうか。』
スブーティは答えた――『師よ、計り知れません。』
師は言われた――『スブーティよ、これと同じことだ。もし求道者がとらわれるところなく施しをすれば、その功徳の積み重なりはたやすくは計り知られない。
実にスブーティよ、求道者の道に向かうものは、このように、跡をのこしたいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならないのだ。』」

虚空が計り知れないと同じように求道者が何物にも囚われずに、また、跡をのこしたいと思わずに施しをすれば、それは、計り知れないと言います。しかし、人間ならば、特に現代人は、未だ出現していない未来人に対しての責任があります。例えば、現在の繁栄のために、将来の事を全く考えずに資源の浪費をする事は未来人に対して申し訳ありません。地球温暖化もまた、同じです。現代人は、生きているだけで、その跡をのこす宿命にあります。この宿命を背負い、未だ出現していない未来人のために、節度ある日常を生きなければなりません。欲望を肥大化する時代は過ぎ去ったと言えます。

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般若心経・金剛般若経 二十五

「所謂不住色布施。不住聲香味觸法布施。須菩提。菩薩應如是布施不住於相。何以故。若菩薩不住相布施。其福徳不可思量。須菩提。於意云何。東方虚空可思量不。」

書き下し文

「いわゆる、色に住ぜずして布施し、声(しよう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法に住せずして布施するなり。須菩提よ、菩薩はまさにかくの如く布施して相に住せざるべし。何を以ての故に。もし菩薩、相に住せずして布施せば、その福徳は思量すべからざればなり。須菩提よ、意においていかに。東方の虚空(こくう)は思量すべきや、いなや。」

現代語訳

「形にとらわれて施しをしてはならない。声や、香りや、味や、触れるものや、心の対象にとらわれて施しをしてはならない。

このように、スブーティよ、求道者・すぐれた人々は、跡をのこしたいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならない。

それはなぜかというと、スブーティよ、もし求道者がとらわれることなく施しをすれば、その功徳が積み重なって、たやすくは計り知れないほどになるからだ。スブーティよ、どう思うか。東の方虚空の量は容易に計り知れるだろうか。」

触:「触覚の対象」「触れられるもの」の意。

対象:ここでは意の対象。

跡を残したいという思い:事物の表相のこと。具体的には、私が・誰に・何をしてやった、という三つの念を離れて施与せよ、ということを教えています。これを仏教では「三輪空寂」とか「三輪清浄」といいます。「三輪」とは「施者」「受者」「施物」をいいます。

何物にも囚われないとは、言葉で言われても早々と出来るものではありません。ここで言われていることは、非常に難しい事ができなければ、それは求道者(菩薩)ではない、と言います。

自在が何物にも囚われないという境地なのかは解かりませんが、唯、物事にこだわるのが人間で、それを絶てと言われても簡単に出来るものではありませんが、ここで言われているような境地に至るのも一つの実存の在り方なのかもしれません。それにしても、途轍もなく難しい事がここでは言われています。

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般若心経・金剛般若経 二十四

「何以故。須菩提。若菩薩有我相人相壽者相。即非菩薩。

復次須菩提。菩薩於法應無所住行於布施。」

書き下し文

「何を以ての故に。須菩提よ、もし菩薩に非ざればなり。

また次に、須菩提よ、菩薩は法においてまさに住する所無くして布施を行ずべし。」

現代語訳

「それは なぜかというと、スブーティよ、もしも求道者が、《生きているものという思い》をおこさすとすれば、もはやかれは求道者と言われないからだ。

それはなぜかというと、スブーティよ、誰でも《自我という思い》をおこしたり、《生きているものという思い》や、《個体という思い》や、《個人という思い》などをおこしたりするものは、もはや求道者とは言われないからだ。」

生きているものという思い:実体としてのいきものが実存するという考え。このほか、自我・個体・個人などを実体視する者は釘同社としてふさわしくないと言われています。

個体:もとは「生命」を意味するが、インド思想一般では「個体」を意味します。

何とも難しい事を言っています。求道者は、自陣が求道者との自覚を持つともはやそれは求道者ではないと言っています。生きているものという思いを抱いただけで既に求道者ではないと言います。それは、自身を「個人」「個体」などなど、自我を抱いた途端に求道者ではなくなってしまうのです。これは、全く以って反語的な物言いです。仏教では定義するのではなく、否定することで、物事が語られてゆきます。つまり、実存はまやかしであると。

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般若心経・金剛般若経 二十三

前述の文を読んで、これは、一筋縄ではいかないな、と感じ入るのではないでしょうか。存在、非在、表象、非=表象、そして、それらの中間に位置するものなどなど、森羅万象は《悩みのない永遠の平安》に導き入れるという事であり、また、そうではないと言います。

何とも非論理的な物言いです。

しかし、人間の存在というものは、論理的で生きてなといなくて、感情の爆発など、非論理的な「情動」に流されながら、日常を生きているものです。それを《悩みのない永遠の平安》の境地へと導き入れるなどいうのは、壮大な夢にしか思えません。それを察してか、世尊は、《悩みのない永遠の平安》の境地に導き入れても、実際は、誰も《悩みのない永遠の平安》に導き入れられないと言っています。つまり、これは、永劫に追い駆けっこが続くということです。逆に言えば、誰もが、《悩みのない永遠の平安》の境地にあると言っているのかもしれません。

此の世の森羅万象は、絶えず《悩みのない永遠の平安》の境地と背中合わせにありながら、それに気付かずにいると言っているのかもしれません。つまり、極楽はとても身近なところにあり、それがあまりにも身近にある故に、永劫に到達できないものと言っているようです。

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般若心経・金剛般若経 二十二

前回の現代語訳

「すなわち、スブーティよ――/『およそ生きもののなかまに含められるかぎりの生きとし生けるもの、卵から生まれたもの、母胎から生まれたもの、湿気から生まれたもの、他から生まれず自ら生れ出たもの、形のあるもの、形のないもの、表象作用のあるもの、表象作用のないもの、表象作用があるでもなく無いでもないもの、その他生きもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、それらのありとあらゆるものを、わたしは、《悩みのない永遠の平安》という境地に導き入れなければならない。しかし、このように、無数の生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはない。』と。」

無余涅槃:「悩みのない永遠の平安」と訳しました。仏教徒の理想郷であるニルヴァーナ(涅槃)に二種ある中の一つです。一切の煩悩を断ち切って未来の生死の原因を無くした者が、なお体だけを残しているのを有余涅槃と言い、その体までも無くしたときを、無余涅槃と言います。具体的に言いますと、無余涅槃とは迷いが全く無い状態で死し、永遠の真理に還って一体になった事を指しています。

他から生まれずおのずから生まれたもの:ふつうは「化生(けしょう)」と漢訳されるものです。託する所なしに忽然と生まれたものです。神々(諸天)や宇宙の最初の人などはこれに属します。

生きているものという思い:実体としての生きものが実存するという考えを指します。この他、自我、個体、などの実体視するものは求道者の態度としてふさわしくないと言われています。

個体:もとは「生命」を意味しましたが、インド思想では「個体」の意味で用いられています。

個人:ここで挙げられている「生きているもの」「自我」「個体」「個人」は、いづれも霊魂または人格主体を意味するものとして仏教の内外で考えられていたものなのです。

個人的な考えは次回に回します。

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般若心経・金剛般若経 二十一

前回の現代語訳

「このように問われたとき、師はスブーティ長老に向かって次のように答えられた――
『まことに、まことに、スブーティよ、あなたの言う通りだ。如来は求道者・すぐれた人々を最上の恵みでつつんでいる。如来は求道者・すぐれた人々の最上の委嘱を与えている。だからスブーティよ、聞くがよい。よくよく考えるがよい。求道者の道に向かう者はどのように生活し、どのように行動し、どのように心を保つべきかということを、わたしはあなたに話して聞かせよう。』
『そうしてくださいますように、師よ。』と、スブーティ長老は師に向かって答えた。

3

師はこのように話し出された
『スブーティよ、ここに求道者の道に向かう者は、次のような心を起こさなければならない。」

ここで疑問なところは全くないと思います。まだ、師は何も話していません。これから物事の本質が解き明かされてゆく筈です。

次を読みます。

「所有一切衆生之類。若卵生若胎生若濕生若化生。若有色若無色。若有想若無想。若非有想非無想。我皆令入無餘涅槃而滅度之。如是滅度無量無數無邊衆生。實無衆生得滅度者。」

書き下し文

「『あらゆる一切衆生の類(たぐい)、もしは卵生(らんしよう)、もしは胎生、もしは湿生(しつしよう)、もしは化生(けしよう)、もしは有色(うしき)、もしは無色、もしは有想(うそう)、もしは無想、もしは非有想(ひうそう)、もしは非無想なるもの、われ、皆、無余涅槃に入れて、これを滅度(めつど)せしむ。かくの如く無量無数(しゆ)無辺の衆生を滅度せしめたれども、実には衆生の滅度を得る者無し』」

現代語訳は次回にします。

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般若心経・金剛般若経 二十

阿耨多羅三藐三菩薩の心:この上ない正しい悟りに向かう心

如来・尊敬されるべき人・正しく目覚めた人:仏陀の別名で、「如来・応供(おうぐ)・正等覚者(しようとうかくしや)」と漢訳されるものです。シナ日本の仏教では「そのように(生けるものどもを救うために)来たりし人」と解し、救済者的性格をふよして「如来」と訳しました。

最上の恵み:最上の恵みとは、身体ならびにそれに関係した行のことであると知るべきである」といいます。

最上の委嘱:最上の委嘱とは、既に得ているものも、未だ得ていないものも両方ともに手離すことはないというである」と言います。

求道者の道に向かう:菩薩の乗り物で進んでゆく者

以上註です。

さて、このスブーティ長老のといによって 金剛般若経は始まります。

この問いに対して仏陀は次のように答えます。

「佛言。善哉善哉。須菩提。如汝所説。如來善護念諸菩薩。善付嘱諸菩薩。汝今諦聽。當爲汝説。善男子善女人。發阿耨多羅三藐三菩薩心。應如是住如是降伏其心。」

書き下し文

「仏言いたもう、『よいかな、よいかな、須菩提よ、汝の説く所の如く、如来はよくもろもろの菩薩を護念し、よくもろもろの菩薩に付嘱(ふぞく)す。汝、今、諦(あきら)かに聴け、まさに汝のために説くべし。善男子善女人、阿耨多羅三藐三菩薩の心を発さんに、まさにかくの如く住し、かくの如くその心を降伏すべし』」

現代語訳は次回に譲ります。

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般若心経・金剛般若経 十九

「時長老須菩提在大衆中。即從座起。偏袒右肩。右膝著地。合掌恭敬而白佛言。」

書き下し文

「時に長老須(しゆ)菩提は、大衆の中に在り、すなわち、座より起(た)ちて、偏(ひと)えに
右の肩を袒(はだぬ)ぎ、右の膝を地に著け、合掌恭敬(くぎよう)して、仏に白(もう)して言う。」

現代語訳

「ちょうどそのとき、スブーティ長老もまた、その同じ集まりに来合せて坐っていた。さて、スブーティ長老は座から起ちあがって、上衣を一方の肩にかけ、右に膝を地につけ、師の居られる方に合掌して次のように言った。」

ここまでは、何の問題もないと思います。これ以降、金剛般若経の本題に入ってゆくことになります。

「『希有世尊。如来善護念諸菩薩。善付嘱諸菩薩。世尊。善男子善女人。發阿耨多羅三藐三菩提心。應云何佳云何降伏其心。』

書き下し文

「『希有(けう)なり。世尊よ。如来はよくもろもろの菩薩を護念し、よくもろもろの菩薩に付嘱(ふぞく)したもう。世尊よ。善男子善女人(ぜんなんしぜんじょにん)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の心を発(おこ)さんに、まさに、いかんが住すべき、いかんがその心を降伏(ごうぶく)すべきや』と。」

現代語訳

「師よ、素晴らしいことです。幸(さち)ある人よ、まったく素晴らしいことです、如来・尊敬されるべき人・正しく目覚めた人によって、求道者・すぐれた人々が《最上の恵み》につつまれているということは。師よ、素晴らしいことです。如来・尊敬されるべき人・正しく目覚めた人によって、求道者・・すぐれた人々が《最上の恵み》をあたえられているということは。/ところで、師よ、求道者の道に向かう立派な若者や立派な娘は、どのように生活し、どのように行動し、どのように心を保ったらよいのですか。」

細かいところは次回にします。

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般若心経・金剛般若経 十八

承前

以上の処までは、何の説明もいらないと思います。先に読み進めます。

「爾時世尊。食時著衣持鉢入舎衞大城乞食。於其城中次第乞食已。還至本處飯食訖。収衣鉢洗足已敷座而坐。」

書き下し文

「その時世尊は、食時(じきじ)に衣(え)を著け、鉢(はつ)を持して、舎衛大城に入りて食を乞い、その城中において次第に乞い已(おわ)って、本処(ほんじょ)に還り、飯(はん)を食し訖(おわ)って、衣鉢(えはつ)を収め、足を洗い已わり、座を敷きて坐したまいき。」

現代語訳

「さて、師は、朝の中に下衣をつけ、鉢と上衣とをとって、シュラーヴァスティー大市街を食物を乞うて歩かれた。師はシュラーヴァスティー大市街を食物を乞うために歩かれ、食事を終えられた。食事を終えると行乞から帰られ、鉢と上衣とを片付けて、両足を洗い、設けられた座に両足を組んで、体を真っ直ぐにして、精神を集中して坐られた。そのとき、多くの修行僧たちは師の居られるところに近づいた。近づいて市の両足を頭に頂き、師のまわりを右回りに三度まわって、かたわらに座った。」

此処もまた、何の説明もないと思います。読んでその通りのことです。師は乞食をしてシュラーヴァスティー大市街を歩き回り、行乞が終われば、帰り、そして、精神集中して修行に励んだということです。

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般若心経・金剛般若経 十七

承前

天竺三蔵:天竺とはインドのこと。三蔵とは経・律・論の三蔵(すなわち仏経聖典の三つの区分)に通暁した僧を指して言います、ただし、鳩摩羅什は純粋にインド人ではなく、インド文化圏である中央アジアから来たので、このように呼んだのです。

鳩摩羅什:クマーラジーヴァ(三四四~四一三)の音訳。中央アジアの亀茲(きじ)国(現名クッチャ)の生まれです。父はインド人で、母は亀茲国の王の妹でした。諸方を遊学して後、亀茲国で大乗仏教を宣揚し、四〇一年に姚秦の国王姚興に迎えられ、長安に入り、十三年間に三百予巻の経典を訳しました。彼の没年に関しては種々の異説がありますが、最近の研究によりますと、彼は、弘始十一年(四〇一年)に没したと解しますが、最も穏当で、彼は五十二歳(四〇一年)の末から六十歳(四〇九年)まで長安で活躍しました。

祇樹給孤獨園:「ジュートゥリ太子の森」の意。ジュートゥリは「戦勝者」の意味で、パセーナディ王の王子の名でした。俗語では合成語の中でJetaとなります。給孤独は「孤独なる者に食を給する者」の意。スダッタ長者の異名です。スダッタ長者が、ブッダ(仏陀)に奉献する精舎の敷地を求めてジュートゥリ太子の林苑に候補地を発見し、金貨を集めて購おうとした話は有名です。この地に建てられた精舎を祇樹給孤獨園精舎、りゃくして祇園精舎と言います。

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