「所謂不住色布施。不住聲香味觸法布施。須菩提。菩薩應如是布施不住於相。何以故。若菩薩不住相布施。其福徳不可思量。須菩提。於意云何。東方虚空可思量不。」
書き下し文
「いわゆる、色に住ぜずして布施し、声(しよう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法に住せずして布施するなり。須菩提よ、菩薩はまさにかくの如く布施して相に住せざるべし。何を以ての故に。もし菩薩、相に住せずして布施せば、その福徳は思量すべからざればなり。須菩提よ、意においていかに。東方の虚空(こくう)は思量すべきや、いなや。」
現代語訳
「形にとらわれて施しをしてはならない。声や、香りや、味や、触れるものや、心の対象にとらわれて施しをしてはならない。
このように、スブーティよ、求道者・すぐれた人々は、跡をのこしたいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならない。
それはなぜかというと、スブーティよ、もし求道者がとらわれることなく施しをすれば、その功徳が積み重なって、たやすくは計り知れないほどになるからだ。スブーティよ、どう思うか。東の方虚空の量は容易に計り知れるだろうか。」
註
触:「触覚の対象」「触れられるもの」の意。
対象:ここでは意の対象。
跡を残したいという思い:事物の表相のこと。具体的には、私が・誰に・何をしてやった、という三つの念を離れて施与せよ、ということを教えています。これを仏教では「三輪空寂」とか「三輪清浄」といいます。「三輪」とは「施者」「受者」「施物」をいいます。
何物にも囚われないとは、言葉で言われても早々と出来るものではありません。ここで言われていることは、非常に難しい事ができなければ、それは求道者(菩薩)ではない、と言います。
自在が何物にも囚われないという境地なのかは解かりませんが、唯、物事にこだわるのが人間で、それを絶てと言われても簡単に出来るものではありませんが、ここで言われているような境地に至るのも一つの実存の在り方なのかもしれません。それにしても、途轍もなく難しい事がここでは言われています。