般若心経・金剛般若経 二十四

「何以故。須菩提。若菩薩有我相人相壽者相。即非菩薩。

復次須菩提。菩薩於法應無所住行於布施。」

書き下し文

「何を以ての故に。須菩提よ、もし菩薩に非ざればなり。

また次に、須菩提よ、菩薩は法においてまさに住する所無くして布施を行ずべし。」

現代語訳

「それは なぜかというと、スブーティよ、もしも求道者が、《生きているものという思い》をおこさすとすれば、もはやかれは求道者と言われないからだ。

それはなぜかというと、スブーティよ、誰でも《自我という思い》をおこしたり、《生きているものという思い》や、《個体という思い》や、《個人という思い》などをおこしたりするものは、もはや求道者とは言われないからだ。」

生きているものという思い:実体としてのいきものが実存するという考え。このほか、自我・個体・個人などを実体視する者は釘同社としてふさわしくないと言われています。

個体:もとは「生命」を意味するが、インド思想一般では「個体」を意味します。

何とも難しい事を言っています。求道者は、自陣が求道者との自覚を持つともはやそれは求道者ではないと言っています。生きているものという思いを抱いただけで既に求道者ではないと言います。それは、自身を「個人」「個体」などなど、自我を抱いた途端に求道者ではなくなってしまうのです。これは、全く以って反語的な物言いです。仏教では定義するのではなく、否定することで、物事が語られてゆきます。つまり、実存はまやかしであると。

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