前回の現代語訳
「すなわち、スブーティよ――/『およそ生きもののなかまに含められるかぎりの生きとし生けるもの、卵から生まれたもの、母胎から生まれたもの、湿気から生まれたもの、他から生まれず自ら生れ出たもの、形のあるもの、形のないもの、表象作用のあるもの、表象作用のないもの、表象作用があるでもなく無いでもないもの、その他生きもののなかまとして考えられるかぎり考えられた生きとし生けるものども、それらのありとあらゆるものを、わたしは、《悩みのない永遠の平安》という境地に導き入れなければならない。しかし、このように、無数の生きとし生けるものを永遠の平安に導き入れても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはない。』と。」
註
無余涅槃:「悩みのない永遠の平安」と訳しました。仏教徒の理想郷であるニルヴァーナ(涅槃)に二種ある中の一つです。一切の煩悩を断ち切って未来の生死の原因を無くした者が、なお体だけを残しているのを有余涅槃と言い、その体までも無くしたときを、無余涅槃と言います。具体的に言いますと、無余涅槃とは迷いが全く無い状態で死し、永遠の真理に還って一体になった事を指しています。
他から生まれずおのずから生まれたもの:ふつうは「化生(けしょう)」と漢訳されるものです。託する所なしに忽然と生まれたものです。神々(諸天)や宇宙の最初の人などはこれに属します。
生きているものという思い:実体としての生きものが実存するという考えを指します。この他、自我、個体、などの実体視するものは求道者の態度としてふさわしくないと言われています。
個体:もとは「生命」を意味しましたが、インド思想では「個体」の意味で用いられています。
個人:ここで挙げられている「生きているもの」「自我」「個体」「個人」は、いづれも霊魂または人格主体を意味するものとして仏教の内外で考えられていたものなのです。
個人的な考えは次回に回します。