般若心経・金剛般若経 六

そもそも実体とは何なのでしょうか。仮に「私」がこの世に「存在」してないければ、此の世の森羅万象は、「存在」しますが、それは、「私」にとっては全く無意味な筈です。それでも「世界」は「私」が「存在」しようがしまいが、実体として「存在」する筈です。

しかし、「私」に関係がない「存在」とは、何なのでしょうか。つまり、この世の現象とは何なのでしょうか。現象は、「私」が「存在」せずとも起きている筈ですが、それでは、「私」が「存在」せずとも起きている現象は、それだけで「存在」していると看做せるのでしょうか。

などと、さまざまな疑問がわいてきます。「およそ物質的現象というものは、全て、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。」という事は、解かるようでいて、何のことかわからない、というのが本当のところです。すまし顔で、「全ては『私』の心次第」などと胃虚栄を張ったところで、この「色即是空。空即是色。」を把捉したことにはまったくなりません。この「色即是空。空即是色。」という言葉は、生者にとっては常に問い付けなければならない此の世の謎です。

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般若心経・金剛般若経 五

「空不異色(くうふいしき)。」

読み下し文

「空は色に異ならず。」

現代語訳

「実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある。実体がないからといっても、それは物質的現象を離れてはいない。まくた、物質的現象は、実体がないことを離れて物質現象であるのではない。」

これは、次の文によって差から深く述べられることになります。しかし、前句で、色不異空、と述べ、次に空不異色と述べるこの反歌のような構成は、見事としか言いようがありません。

さて、物質的現象には実体がなく、実体がないからこそ、物質的現象である、とは、何を言っているのでしょうか。つまり、現象と実体とが別物と言っています。これは、何となく解かると思います。これはカントの謂う「物自体」にも通じるものがあるように思いますが、これは、的外れかもしれません。

しかし、人間は、世界認識する時に、現象から実体を類推する事が多いのではないでしょうか。

さて、次は有名は句です。

「色即是空(しきそくぜくう)。空即是色(くうそくぜしき)。」

読み下し文

「色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。」

現代語訳

「 (このようにして、)およそ物質的現象というものは、全て、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。」

この「空即是色。色即是空。」とは余りに有名な句です。しかし、この句を理解するには、紆余曲折の人生を歩まなければ、実際のところ何を言っているのかさっぱりわからないものです。

これは、禅問答のようにも思えますが、しかし、この全て実体がないと言い切るところなど、見事という外ありません。(続く)

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般若心経・金剛般若経 四

「舎利子(しやりし)。」

読み下し文

「舎利子よ、」

現代語訳

「シャーリプトラよ、」

これは、人名で、釈尊の高足の弟子のひとりのことです。智慧第一と謳われた人です。

「色不異空(しきふいくう)。」

読み下し文

「色は空に異ならず。」

現代語訳

「この世において、物質世界には実体がないのであり、」

ここで、色は「壊れるもの」「変化するもの」を意味します。古来、変壊(へんね)・質礙(ぜつげ)の義ありといわれています。変壊とは、絶えず変化して一時も恒常でないということ。質礙とは物質が同時に同じところを占有できないこと。

これは、ずばり、「存在」に関する深い思索に満ちた言葉です。「色は空に異ならず」。何とも深い言葉です。

確かに私の「存在」、それをハイデガー風に言い換えますと「現存在」は、二つと同じ場所に存在することは不可能です。これが存在には決定的であって、それ故に、他者は現存在にとって超越者としてこの「世界」に現われるのです。そして、物質もまた、現存在と同様に己に関して深い思索をしていると考えると、現存在と物質を分ける根拠はなくなります。

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般若心経・金剛般若経 三

「照見五蘊階空(しよけんごおんかいくう)。」

読み下し文は、

「五蘊皆空なりと照見して。」

「五蘊(ごうん)」とは、
1. 色蘊(しきうん):人間の肉体を意味していましたが、後に全ての物質も含んで言われるようになりました。
2. 受蘊(じゅうん):感受作用。
3. 想蘊(そううん):表象作用。
4. 行蘊(ぎょううん):意志作用。
5. 識蘊(しきうん):認識作用。

五蘊とは、「五つの集まり」という意味です。五蘊で一切の存在が成り立っているというインド仏教は考えたのでした。

現代語訳

「存在するものには五つの構成要素があると見極めた。」

この五蘊とは、考えれば考える程、奥深いもので、色受想行識で存在が成り立っているときっぱりと言うことは、どれほどの思索があったのか偲ばれます。

「度一切苦厄(どいつさいくやく)。」

読み下し文

「一切の苦厄を度したまえり。」

現代語訳

「しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のない者である事を見抜いたのであった。」

つまり、独善的に言えば、あらゆる 苦厄は鎮めた、という意味かと思われます。悟りの境地というものの一端がここに現われているように思います。それは、度一切苦厄だからなのです。つまり、如何なる苦厄に対しても対峙できると高らかに宣言しているのです。これは、非常に重い言葉です。

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般若心経・金剛般若経 二

般若波羅蜜多心経は、こう始まります。

「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)」と。

私は、この観自在菩薩と言う文字を見る度に何とも言えない落ち着いたものを感じずにはいられません。

「行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにやはらみつたじ)」

読み下し文は

「深般若波羅蜜多を行じし時、」

です。

これを現代語訳にすると、

「求道者にして聖なる観音は、深遠なる智慧の完成を実践していたとき、」

となります。

「観自在菩薩」が「求道者」と訳されていますが、観自在菩薩とは、誰もが具えている働きで、我執を捨てて多くの人々の中に生きようと願い、足を踏み出す時、輝き現われて来るもので、菩薩とは、求道者の事を一般には現わします。

つまり、「観自在菩薩」とは、森羅万象を全て見渡した求道者と言う意味が浮かび上がってきます。

そして、「深般若波羅蜜多時。」とは、前回に書いたように般若とは智慧のことで、そこに深とあるので、深遠と言うことになります。つまり、誰もが求道者となり得、差の求道者とは奥深い智慧の完成を飽くなき完成を目指すものということです。

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般若心経・金剛般若経 一

宗教、特に仏教を中心に宗教史に残る経文などを取り上げながら、宗教と科学が背中合わせに存在する事を浮き彫りにするつもりです。

般若心経・金剛般若経 一

これからこのブログでは、主に仏教を主にしながらもキリスト教、ヒンズー教、ゾロアスター教、キリスト教、イスラム教など、宗教の枠にとらわれず、書き綴ってゆきたいと思います。

まず、何といっても般若心経は仏教を語る上で避けられない大変重要なお経です。写経が静かなブームとなっていますが、その際写経されるのは殆どが般若心経です。

それでは、般若心経を見てみましょう。

般若波羅蜜多心経(はんにやはらみつたしんぎよう)

唐三藏法師玄奘譯(とうさんぞうほうしげんじようやく)

現代語訳

般若波羅蜜多心経とは、まず、般若ですが、智慧のことです。波羅蜜多は、岩波文庫の中村元・紀野一義役ですと、完成と訳しています。つまり、般若波羅蜜多心経とは、「智慧の完成」という意味になります。

唐三藏法師玄奘譯とは、西遊記でも有名な三蔵法師のことです。つまり、これは、唐の時代、三蔵法師玄奘が漢訳したものと言う意味です

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