般若心経・金剛般若経 三十六

「亦無有定法如來可説。何以故。如來所説法。皆不可取不可説。非法非非法。所以者何。一切賢聖。皆以無爲法。而有差別。須菩提。於意云何。若人滿三千大千世界。七寶以用布施。是人所得福徳寧爲多不。須菩提言。甚多世尊。何以故。是福徳即非復福性。是故如來説福徳多。若復有人。」

書き下し文

「また、定んで、法の、如来によりて説かるべきもの、有ること無し。何を以ての故に。如来の説きたもう所の法は、皆、取るべからず、説くべからざればなり。法にも非ず、非法にも非ず。一切の賢聖(けんしよう)は、皆、無為(むい)の法を以て、しかも、差別有ればなり。須菩提よ、意においていかに。もし、人、三千代千世界を満たす七宝を、以て用いて布施せんに、この人の得る所の福徳は、寧ろ多しとなすやいなや』。須菩提言う、『甚だ多し、世尊よ。何を以ての故に。この福徳は、すなわち、また、福性に非ざればなり。この故に如来は、福徳多しと説きたもう』。『またもし、人有り、」

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般若心経・金剛般若経 三十五

筏の喩えの法門:筏の喩えの多くは経典に記されています。〔修行僧たちよ、このように、わたしは、のり越えさせるために、執着させないために、筏の喩えの法を説いた。修行僧たちよ、実に筏の喩えを知る汝らは、法さえも捨離しなければならない。まして、法でないものはなおさらである。〕唯識説の開祖マイトレーヤは、法には教示の法と証得と二種あって、教示としての法が筏に喩えられるのだと言います。

ここでは、執着しない、つまり、無頓着に関して説かれていますが、人間日常生活を糸夏でいる限り、無頓着ではいられません。なにかに執着しているものです。それを踏まえた上での無頓着なのです。

さて、此の「私」という存在は、「私」というものから遁れ出ることが可能なのかどうかは人それぞれの生き方に直結する問題です。唯、仏教では総じて、己に無頓着になるべきと説いています。この境地は、大変難しいものです。それでも、自己に対して無頓着の境地に達すれば、それは、たぶん、平安なる境地に違いありません。

しかし、それまでは、人間、じたばたしなければどうにもこうにもしようがありません

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般若心経・金剛般若経 三十四

現代語訳

「かれらは、かの自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうから。

もしも、《ものでないものという思い》がおこるならば、かれらには、かの自我に対する執着があるだろうし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるだろうからだ。

それはなぜだろう。

実に、また、スブーティよ、求道者・すぐれた人々は、法をとりあげてもいけないし、法でないものをとりあげてもいけないからだ。

それだから、如来は、この趣意で、次のようなことばを説かれた――『筏の喩えの法門を知る人は、法さえも捨てなければならない。まして、法でないものはなおさらのことである。』と。」

さらに、また、師はスブーティ長老に向かってこのように問われた――「スブーティよ、どう思うか。如来が、この上ない正しい覚りであるとして現に覚っている法がなにあるだろうか。また、如来によって教え示された法がなにかあるだろうか。」

こう問われた時に、スブーティ長老は師に向かってこのように答えた――「師よ、わたくしが師の説かれたところの意味を理解したところによると、如来が、この上ない正しい覚りである」

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般若心経・金剛般若経 三十三

「則爲著我人衆生壽者。若取法相即著我人衆生壽者。何以故。若取非法相。即著我人衆生壽者。是故不應取法。不應取非法。以是義故。如來常説。汝等比丘。知我説法如筏喩者。法尚應捨。何況非法。
須菩提。於意云何。如來得阿耨多羅三藐三菩提。」

書き下し文

「すなわち、我。人・衆生・寿者に著(じやく)せられ、若し、法に相を取るときは、すなわち、我・人・衆生・寿者に著すればなり。何を以ての故に。もし、非法に相を取るときは、すなわち、我・人・衆生・寿者に著すればなり。この故に、まさに法を取るべからず。まさに非法をも取るべからず。この義を以ての故に、如来は常に説けり、『汝ら比丘よ、わが説法を筏の喩えの如しと知る者は、法すらなおまさに捨つべし。いかに況んや非法をや』と。須菩提よ、意においていかに。如来にして阿耨多羅三藐三菩提を得んに、如来の説く所の法有りや」。須菩提言う、われ仏の説きたもう所の義を解(げ)する如くくんば、定(さだ)んで、法の、阿耨多羅三藐三菩提となづくるもの、有ること無し、」

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般若心経・金剛般若経 三十二

(承前)また、スブーティよ、これらの求道者・すぐれた人々には、《ものという思い》もおこらないし、同じく、《ものでないものという思い》もおこらないからだ。また、スブーティよ、かれらには、思うということも、思わないということもおこらなすからだ。それはなぜかというと、

スブーティよ、もしも、かれら求道者・すぐれた人々に、《ものという思い》がおこるならば、」

ものという思い:小乗仏教は「人無我」(実体としての個人存在の否定)を説くのに対して、大乗仏教は「法無我」(個人存在の構成要素の一つ一つについて実体性を否定すること)を説くとふつう言われていますが、この一節では、明らかに「人無我」に対して「法無我」を説き、前者を後者によって基礎づけています。仏教で説く「法」という語は非常に多義的ですが、今ここでは「実体としてのもの」と解して差し支えありません。

ここでは、末法の世になろうが、求道者・すぐれた人々は、仏教の教えがたとえ廃れたとしても、一度、仏典化をひも解けば、直ぐに理解すると言っています。そして、この求道者・すぐれた人々は、自我という思いは起こらず、生存するという思いも、個体という思いも、個人という思いも、起らないと説いています。

また、ものという思いも起こらず、ものでないという思いもまた、起らないと説いています。

何とも難しいですね。これは、ある程度達観した人でないとこの境地は解かりません。個人という自我から遁れ、個人という思いからも逃れ、ものを思うということからも遁れた境地というものは、世俗にどっぷりとつかったものには、言葉上でしか解かりません。解からないながらも、ここで説かれていることは、解かるから不思議なのです。人間、何するものぞ、です。

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般若心経・金剛般若経 三十一

現代語訳

「徳高く、戒律を守り、智慧深い求道者・すぐれた人々は、このような経典の言葉が説かれるとき、それは真実だと思うに違いない。スブーティよ、また、かれら求道者・すぐれた人々は、ひとりめざめた人(仏)に近づき帰依(きえ)したり、ひとり目ざめた人のもとで善の根を植えたりしただけでなく、何十万という多くの目ざめた人々(諸仏)に近づき帰依したり、何十万という多くの目ざめた人々のもとで善の根を植えたりしたことのある人々であって、このような経典の言葉に説かれるとき、ひたすらに清らかな信仰を得るに違いないのだ。

スブーティよ、如来は目ざめた人の智慧でかれらを知っている。スブーティよ、如来は目ざめた人の眼でかれらを見ている。スブーティよ、如来はかれらを覚っている。スブーティよ、かれらすべては、計り知れず、数えきれない功徳を積んで、自分のものとするようになるに違いないのだ。

それはなぜかというと、スブーティよ、実にこれらの求道者・すぐれた人々には、自我という思いはおこらないし、生存するものという思いも、個体という思いも、 個人という思いもおこらないからだ。(つづく)

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般若心経・金剛般若経 三十

経典

「有持戒修福者。於此章句能生信心。以此爲實。當知是人不於一佛三四五佛而種善根。已於無量千萬佛所種諸善根。聞是章句乃至一念生淨信者。須菩提。如來悉知悉見是諸衆生無量福徳。何以故。是諸衆生無復我相人相衆生相壽者相。無法相亦無非法相。何以故。是諸衆生。若心取相」

書き下し文

「戒を持し、福を修むる者ありて、この章句において、よく信心を生じ、これを以て実なりとなさん。まさに知るべし、この人は、一仏二仏三四五仏において善根(ぜんごん)を種(う)え、この章句を聞きて、乃至(ないし)、一念に浄信を生ずる者なることを。須菩提よ、如来は、このもろもろの衆生の、かくの如き無量の福徳を得んことを、悉く知り、悉く見るなり。何を以ての故に。このもろもろの衆生には、また、我相・人相。・衆生相・寿者相無く、法相(ほつそう)も無く、また、非法相も無ければなり。何を以ての故に。このもろもろの衆生、もし、心の相を取るときは、」

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般若心経・金剛般若経 二十九

承前

この説によると、第二の五百年代とは、「像法」の時代になります。しかし、大乗仏教が興起した時代の一般観念として、釈尊がなくなってから後百年経つと宗教的な変動があり、大乗経典が世の中に行われるようになると考えていた。このことは諸の大乗経典の記載から見ても明らかです。故に「金剛経」もむこの観念を受けて、第二の五百年代には仏教が乱れ、変動が起きる、と考えていました。

釈尊が滅しての第二の五百年後に仏教の教えが滅びると言います。これを末法思想と言いますが、現代に置き換えると、1999年の奇妙な世紀末での民衆の奇妙な心持に通じるものがあるように思います。1999年の変に高揚し、未来に絶望する感情は、何故か、全世界を蔽い、不思議なときでありました。このようなことが釈尊が滅して五百年、千年と経ったときにも、妙に浮き足だった様が民衆の間に起り、日本では、鎌倉仏教が生まれたように思います。

末法思想は、現在にも脈々と受け継がれているのです。

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般若心経・金剛般若経 二十八

「須菩提白佛言。世尊。頗有衆生得聞如是言説章句生實信不。佛告須菩提。莫作是説。如來滅後後五百歳。」

書き下し文

「須菩提、仏に白(もう)して言う、「世尊よ、頗る衆生有りて、かくの如き言説章句を聞きて実信を生ずることや得るや、いなや。」仏、須菩提に告げたもう、「この説を作(な)すことなかれ。如来の滅後、後の五百歳に、」

現代語訳

「6

このように言われたとき、スブーティ長老は、師に向かって次のように訊ねた――『師よ、これから先、後の時世になって第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃には、このような経典の言葉が説かれても、それが真実だと思う人々が誰かいるでしょうか。』

師は答えられた――『スブーティよ、あなたはそういう風に言ってはならない。これから先、後の時世になって、第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃に、このような経典の言葉が説かれるとき、それが真実だとおもう人々がいるに違いない。

スブーティよ、また、これから先、後の時世になって、第二の五百年代に正しい教えが亡びる頃、」

第二の五百年代:釈尊がなくなって後五百年間は「正法」が世に行われ、教えと修行と証(さとり)の三つともに存在する時期、次の(第二の)五百年間は正法に似た「像(ぞう)法」の行われる時期で、教えと修行はあるが証りのない時期、それ以降は「末法(まっぽう)」の時代で、教えはあるが修行も証りもない法滅の時代が来るという説が後代に行われました。(つづく)

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般若心経・金剛般若経 二十七

「須菩提。於意云何。可以身相見如來。不也世尊。不可以身相得見如來。何以故。如來所説身相。佛告須菩提。凡所有相是虚妄。若見諸相非相。則見如來。」

書き下し文

「スブーティよ、意においていかに。身相(しんそう)を以て如来を見るべきやいなや。』『いななり、世尊よ、身を以て如来を見ることを得べからず。何を以ての故に。如来の説きたまえるところの身相は、すなわち、身相に非ざればなり。』仏、須菩提に告げたもう、『およそあらゆる相は皆これ虚妄(こもう)なり。もし諸相は相に非ずと見るときは、すなわち如来を見る。』」

現代語訳

「5
スブーティよ、どう思うか、如来は特徴をそなえたものと見るべきであろうか。」
スブーティは答えた――『師よ、そう見るべきではありません。如来は特徴をそなえたものと見てはならないのです。それはなぜかというと、師よ、〈特徴をそなえているということは特徴をそなえていないことだ〉と、如来が仰せられたからです。』

このように答えられたとき、師はスブーティ長老に向かって次のように言われた――『スブーティよ、特徴をそなえているといえば、それはいつわりであり、特徴をそなえていないといえば、それはいつわりではない。だから、特徴があるということ、特徴がないこととその両方から如来を見なければならないのだ。」

特徴:仏の特徴といわれる「三十二相」の事をいいます。仏のみに存し、凡夫にはない三十二の身体的特徴をいいます。

如来は特徴(註を参照)を備えているということは特徴をそなえていないことだ、とこれまた、難しい事を言っています。如来に鑿あるといわれる三十二相は、あるのですが、ないということなのです、と言っています。それを 虚妄と言っています。此の世の現象は虚妄なのです。しかし、訳尻顔に、「此の世は虚妄」などと言ったところで、涅槃には到底近づけません。

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